荒井由実「わたしのフランソワーズ」

コインランドリーにリビングのラグを取りに行った。きっともう乾燥が終了しているはずだった。雨。コインランドリーは混んでいた。有線でスピッツの「ロビンソン」がかかっていた。

「わたしのフランソワーズ」は荒井由実フランソワーズ・アルディのことを歌った歌だ。ドラムからラグを取り出す。温かい。新調した洗濯機にこの無印のキルティングラグが入らないので時々ここへ来る。

何日か前に悲しい夢を見た。ショートカットの女性が泣いている。わたしも泣いていた。夢の中で沢山涙を流すと起きた時に頭痛がする。

わたしはその朝お弁当を作りながら夢を思い返してはいろいろと考えた。最近珈琲が飲めなくなった。珈琲とともにやってくるあの吐き気と目眩はもしかしたらDIDの除反応の症状のひとつではないか。うすうす感ずいてはいた。吐き気と目眩、それから広々とした場所に突然放り出されたかのような脱力。わたしという存在のどうしようもないほどに強烈な心細さ。

珈琲と夢の女性。このふたつは確かに関係していた。彼女が両親のお店でアルバイトしていたのはわたしが小学4年くらいだ。名前は思い出せない。色白で背が低く爪には赤いマニキュアをしていた。明るい赤だった。

休日に現れた彼女はわたしに、と紙袋を差し出す。わたしは早速中を取り出すとそれは服だった。

休日を利用しての珈琲レッスン。母はその日から彼女にネルドリップを教えることになっていた。カウンターに母と彼女。真剣な表情でポットの中を覗いている。母はもうひとつのポットでお湯を注ぐ。湯気。たちまちカウンターが珈琲の香りで包まれた。

ロングスプーンで母が出来上がりをテイスティングする。うん。頷く母。彼女にもう一本のロングスプーンを手渡す。

わたしはそれをずっと眺めていた。

ある日彼女がわたしに言った。ねぇマミちゃん、もしマミちゃんの好きになった人が日本人だったらわたしに相談してね。パパとママきっと反対するから。ねぇもし反対されたらマミちゃんはどうする?

彼女のかすれたような小さな声、綺麗な顎のライン、長い黒い睫毛を覚えている。

わたしはまだ小学4年だ。なんの話?その時はさっぱりわからなかったがそののち少し離れた場所にある溜め池で若い男の人が溺死する事件があった。丁度赤松の大木が池に向かって太い枝を横に伸ばしている場所だった。ここだよ。クラスメートたちが指を指した。

黒いワンピース姿の彼女が母に抱きかかえられるようにして泣き崩れている。溺死した男性は彼女の恋人だった。酒に酔って池に入ったという。それを聞いたわたしは体が震えた。母も泣いている。珈琲の香りの染み込んだカウンターでふたりは泣き続けていた。

何年も後になって、彼女が日本人だったと知り、わたしは驚いた。彼女はとても韓国人っぽかったからだ。あたしいつかお店をやりたいの。彼女はそう言って微笑んだ。死んだ若い男性は彼女の2つ年上で、その男性は在日で、男性の親族はふたりの交際に反対していたという。彼女はその事件後アルバイトを辞めた。それからは1度も会っていない。

高校生になったわたしは恐ろしいものを、長い間封印していたものをその時解くかのように彼女がくれた紙袋から服を一枚一枚取り出した。

黒い光沢のある化繊の半袖シャツは背中にシルバーの英文の刺繍が入っている。ブルージーンズ。

高校生のわたしが池のほとりにひとり立ち尽くす。お店で珈琲レッスンを受けていた彼女は17歳だった。はたして彼女は今もまだ韓国人を好きだろうか。わたしなら自分を置いて死んでいくような男を許すだろうか。

どうして韓国人は早く死ぬのだろう。

わたしは水面をみつめる。彼女のくれた刺繍入りのシャツを着て、彼女のくれたブルージーンズを履いて。

昨日わたしは溜め池のあった場所を訪ねた。あの赤松は切り倒されて無くなり、池は美しい都市公園として生まれ変わったがこの悲しみの連鎖は終わってはいない。わたしはまだ解かれてはいないのだろうか。

頭痛が収まらない。ずきずきするひたいに手を当てる。わたしは夢の女性の涙に応えたい。ここは頑張らねばならない。自殺者の夢はSOSのサインである。自殺は暴力に似ている。暴力の連鎖は断ち切らねばならない。

あの池のほとりの赤松が切り倒されたようにだ。