木彫り熊紀行②〜山は白金、朝日を浴びて

北海道から帰り、ほぼ10日ぶりに畑へ。向かいの畑の叔父さんのクロちゃん(本名は黒田さん)がズッキーニとカボチャが虫に喰われとるでと消毒液を貸してくれる。というかクロちゃん自らシューシューうちの畑のズッキーニに消毒液をかけてくれている。

ズッキーニ枯れちゃうかな。いや間に合う。ふーん、虫なんているんだあ。わたしがつぶやくとクロちゃんは笑った。葉っぱ美味しいから。

今日は大切に育てたポット苗のエゴマとシシトウを10株ずつマルチングした畝に植え付け。どん詰まりの場所にアーティチョークの種も撒く。アーティチョークてなんだ。クロちゃんは今日は暇そうだ。

畑から帰り着替えて図書館へ。徳川義親関連の書籍は一冊を除いてみんな閉庫だった。木彫り熊ばかり見ていたのでちょっと本物のヒグマの写真集なんかも借りる。

日本経済新聞社私の履歴書」文化人16という本に徳川義親を発見。日本経済新聞社の本はいい。すこぶる良い。全く簡潔で読みやすい。ところが読み始めて少しびっくり。義親本人の投稿である。人柄の良さが現れる、それでいてどこか高貴なとぼけた文体。ユーモアもある。いいなあ。

徳川義親は明治19年生まれ、徳川家19代当主、最期の殿様と言われている。史学生物学を専門としながら20代で北海道に渡り、17代当主義勝の切り開いた北海道開墾時代の八雲町に徳川農場を開いた。八雲に酪農を導入したのは義親だという説もある。そして八雲町民に木彫りの熊を作るよう命じたのは彼だ。

義親の人生は波乱万丈だ。幼くして生家を出された。殿様であるにも関わらずなんだか淋しい思春期を過ごしている。元々は松平家だが21歳で徳川家の婿養子となり侯爵とかにもなっちゃったりした。

午前中の畑仕事が祟り本を読もうにも眠くてたまらない。正体無くソファで昼寝、気付けば夕方だ。こりゃ雨でも降らなけりゃ本など読めぬ、晴耕雨読ってこういうことなのね〜。

台所でへんてこな夕ご飯をガチャガチャやりながらぼんやり八雲の木彫り熊を思い出していた。八雲町の木彫り熊には鮭をくわえた熊は一頭もいない。

義親は新婚旅行で行ったスイスで木彫りの熊を見て買い求め帰国。ねぇ、これみんなで作ってみたら?と町の青年団に提案した。冬のあいだは農家は暇だからかなくらいに考えていたけれど、義親は北海道開墾時代の農民たちの暗い寒い冬の暮らしを少しでも有機的に変えたかったようだ。

その時のスイス土産の木彫り熊が何体か資料館に展示されていた。6頭の子熊たちが小さな椅子に腰掛け教室で授業を受けている「熊の学校」。サーカス宜しく逆立ちをする熊。楽器を持った熊たちの熊のオーケストラもあった。スイスの木彫り熊は生鮭をがぶりとやったりはしないかね。

え、これ、シルバニアファミリーやん。

わたしは資料館でつぶやいた。

駄目。眠い。眠くて吐き気がする。

書きたいことが沢山あるというのに寄る年波には勝てぬ悲しさよ。

あ、そうそう。スキーをする熊のお人形もあるんだよ〜。いやいや〜。めっちゃ可愛いんだよ〜。

あっか〜ん。もう一行も書けないわ。今日はこの辺でおしまいとしよう。

ではではおやすみなさい〜。