禁中並公家諸法度は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法令である。天皇はこの時から傀儡なる神とならされるがそれは果たして上手く行ったのだろうか。神格化した何かを引きずり下ろすことはそれほど簡単か。高めたり低めたりと人間の権力は揺れ動き常に相対的にそこにある。
シャーロック・ホームズを時々読む。そしてシャーロキアンの本も読む。数日前彼のことを在野の活動家だと論じている文章を読んだ。在野とは野原に棲むことでは無い。インディペンデント。つまり彼の所属は公では無い。彼はいかがわしい組織権力に一切頼ること無く事件を解決する。まあワトスン君には手伝ってもらうけどね。
宗教も国家も民族も軍隊も、人類史においてこれでもかと人々を巻き込んでは事態を複雑にして来た。国は?起源は?学者たちはそれらを辿っているうちにいつしか弱り果て年老いていく。
八雲町の男たちにスイスの木彫り熊を持ち帰り、彫ってみたらと勧めた徳川義親もまた多種多様な公的しがらみに翻弄された。
大政奉還、廃藩置県。
しかし義親の歩みはラジカルだ。まるで着ぐるみを脱ぎ捨てるかのように彼は広大な徳川の地所と城をまるっと寄付し、北を治めよとの辞令にも意気揚揚遠く最果ての蝦夷地に単独遠征を潔しとした。
馬を代えながらの20日間の旅。函館から北上、稚内から南下。苦行とも呼べるその探検へと繰り出した義親の目に映ったものは間違いなく在野としてそこに立つ者だけが見ることの出来る凛とした北の大地であった。
奇しくも同じ時代を生きた英国人の編集者は生まれたばかりの我が子をモチーフに散文を書いた。ヴィクトリア朝的儀礼を大いなるアマチュアリズムで軽々と駆け抜けるそのリリカルな言葉たちに同僚の挿絵画家も相乗りをする。やがて「クマのプーさん」として結晶化する可笑しな散文は果たして本当に純粋に子どものためのものだったのか。
「クマのプーさん」のモデルとなったクマのぬいぐるみはシュタイフ社のテディベアであった。シュタイフ社はやはり同時代、柔らかくて抱き心地の良い55cmの身長の茶色いクマを3000頭作った。シュタイフ社も在野、家内工業だった。
19世紀、それまでの緩やかな時代の終焉。荒々しい戦争の嵐が世界中を駆け巡る。
在野への憧れ。
そして表現者としての男たちが熊を見つめたのは何故か?
熊の支配?
違うから。
この話はまだ続きます〜。